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労働組合運動の前進のために −『資本論』を学ぼう−

  • 第14期ひろしま労働学校第1回「マルクス『資本論』の映像を見て討論」資料②
2021年5月下旬 コメンテーター  高橋専任講師

〔以下、本資料での『資本論』からの引用は国民文庫版(岡崎次郎訳)を利用し、分冊番号 とページ数のみを示します。なお、第1~3分冊が第1巻、第4~5分冊が第2巻、第6~8分冊 が第3巻です。また、映像からの引用は、コメンテーターが要約した部分もあります。〕

なぜ、今『資本論』なのか?

150年以上も前の本で、こんなに分厚い難しそうな本を改めて今、読む価値があるのかと 思われるかもしれない。でも、当時の社会も今の社会も資本主義社会で、同じ金儲(もう) けを一番優先するシステムです。そしてこの30年間のいわゆる「グローバル化」の下で、 資本主義が一番いいシステムだといろいろやってきた結果、格差が広がったり、過労死を するような働き方が広まったり、さらに言うと、環境問題がどんどん悪化したりしている。

その中で若者たちが今、資本主義じゃない別の世界をもっともっと作った方がいいんじゃ ないかというので、とくにアメリカなんかを中心に社会主義を支持するようになっている。 一部の資本家だけが儲ける今の社会ではなく、皆が自由で平等に生きることのできる社会 を作れるのではいかと感じているのです。(映像より)

新型コロナが世界に広がる直前の2019年には、巨大デモが世界中を席巻(せっけん)した。40年に及ぶ 新自由主義攻撃への積りに積もった労働者階級人民の怒りが爆発し、新自由主義攻撃への 大反乱が始まっていた。新自由主義と世界の労働者の攻防がひとつの歴史的転機を迎えて いたのです。

「そこにコロナが起きて、この大きな転換はロックダウンなどで一旦(いった ん)抑え込まれたかに見 えました。でもそうじゃなかった。ブラック・ライブズ・マターの闘いや医療、教育労働 者の立ち上がり、香港でもミャンマーでも、コロナ禍の中、世界中の労働者が必死の闘い を続けています。コロナで抑えつけられたエネルギーや怒りの声はどんどん圧力を増している。

この時に労働組合の力がどう発揮されるのかが最大の課題であることは間違いありません。 どんなに小さくとも、こうした情勢の中で闘う労働組合がちゃんと存在していることがど れほど重要か」(動労千葉・田中康宏さん、『月刊労働運動』2021年5月号「全国労働組合交流センター三代表の座談会」8~9頁)

「去年の特徴は、『今の社会の仕組みではもう生きられへん』『資本主義が終わり』とい うことが、ネットに上がったりしているんです。面白いのは資本論がブームになっている」 「コロナがめっちゃでかかったと思うのです。自粛しろと言われて自粛させられているの は労働者であって、コロナに乗じて資本は賃下げはするし、解雇はする。労働者だけが自 粛している。こんなのはおかしいというのが噴き出した感じがするのです。今の社会の現 実をどうするのだということがすごく大問題だと思う。その辺の社会の崩壊という事態を 見ることが必要ですよね」(港合同・木下浩平さん、同9頁)

「コロナ前の2019年が大きな転換点だと田中さんが言った。その後、資本論が流行ってい るのは面白いことですね。マルクスの資本論を解説した本が出てきています。社会的には 10年ぐらい前に雨宮処凛(あまみやかりん)さんが注目され、同時に資本論の解説本が出て売れています。我々 のような労働組合がしっかり存在していて、勉強された方が一緒に結集してくれる状況か なと感じました。資本論の解説本が売れるというのは、資本主義の終わり、破綻(はたん)と感じま す。僕らがそれを活用してどう結集させるか活性化させるかです」(関西生コン支部・武 谷新吾さん、同)

「次を考え始めているのでしょうね。資本論でこの社会は何かに関心が起きているのは、 この次どうするのかを同時に考えることですよね。それが問題になっていると思います」 (前出、木下さん、同)

すでに大恐慌情勢下、崩壊的危機と矛盾が極点に達していた最末期の資本主義=新自由主 義を襲った新型コロナは、「新自由主義の破綻」「資本主義の終わり」を世界の労働者階 級人民に実感させました。その中で、労働者階級人民は生きるための怒りの反乱に世界中 で立ち上がり、支配階級(資本家階級)は体制崩壊の現実性に恐怖しています。そこから 保護主義、国家主義、排外主義への動きを、そして国家による労働者階級人民への治安弾 圧、監視支配、情報統制を強めつつ、軍拡と戦争の道へと一斉(いっせい)に突き進んで いる。そのために資本家階級は「労組なき社会」を目指して、労働者階級に襲いかかって いるのです。

こうした情勢の下、「どんなに小さくても闘う労働組合が存在していることが重要」です。 労働組合をめぐる資本家階級と労働者階級の攻防は激しさを増しています。この攻防に勝 ち抜き、闘う労働組合・労働運動をよみがえらせましょう。

そのためには、日々の職場での実践が重要です。職場での現実は、今の社会の現実と切り離すことはできません。日々 の職場闘争を闘えば闘うほど、おのずと今の社会の現実と向き合うことにつながります。 だから、資本主義に代わる「次を考え始めている」「この次どうするのかを同時に考える」 ことが問題となっているのだと言える。そのことに真正面から取り組み、回答を提起して いるのがマルクスの『資本論』です。 ここに『資本論』を今の時点で改めて学ぶ意味があります。

マルクスは『資本論』において、唯物史観を「導きの糸」とした経済学研究の結実として、 資本主義社会を階級社会としてつかんだ。そのことを基礎に、「社会の現実の土台」とし ての資本主義的生産諸関係の総体(物質的な経済的諸関係の総体)を、唯物論的に、人間 の意思や意図から独立にそれ自身の論理と法則(必然性)をもって動くものとして全面的 に解明した。そのことによって唯物史観を経済学を通して科学的に基礎づけました。

それは実践的・歴史的には、資本主義社会は特殊歴史的な一階級社会、そして最後の階級 社会であり、共産主義社会への移行を必然化すること、その移行を切り開いていく主体は 労働者階級であることを階級的・科学的にはっきりさせたことを意味します。その意味で、 『資本論』は「(社会変革=プロレタリア革命の)実践の書」なのです。〔また、その中では、共産主義社会についてのイメージも一定述べられています。〕

なぜ過労死はなくならないのか?

どうして私たちはこんなに働いているのか? これだけ技術も発達して、われわれ豊かに なっているのに、過労死のような問題がなくならないのかということを、マルクスを使い ながら考えていきたいなと思います。

まずこの労働問題を考えるに当たって、資本主義においてどういうふうに利益が生み出 されていくのかということを考えていかなければなりません。

その際にまず押さえておかなければならないのが、資本という概念。一般には、お金あ るいは企業が持っているビルとか、そういうイメージをお持ちになる方が多いかと思うん です。それとマルクスは全然違っていて、「資本とは価値増殖の運動である」と言ってい る。

マルクスは、G-W-G'(資本の一般定式)という式で資本を表しました。Gはドイツ 語でお金を表すGeld(ゲルト)、Wは商品を表すWare(ヴァーレ)の頭文字です。

たとえばパン工場の場合、元手となるお金(G)が最初にあります。そのお金でパンを 製造し、売ることで元手より多いお金(G'=元手+α)が手に入ります。G-W-G'と 繰り返すことで、どんどんお金が増えていく。このお金儲けの運動が、マルクスの言う 「資本」です。

絶えず姿を貨幣⇒商品⇒貨幣⇒商品⇒貨幣と変えていく運動を通じてずっと増え続けて、一 貫して価値は存在している。価値が増える運動にはゴールがないんです。そこが特徴で、 たとえば今、世界で一番金持ちのアマゾンCEOのジェフ・べゾスは資産が2千億ドルある。 でも彼はそこでビジネスをやめるとは絶対に言わないです。使い切れないお金を持ってい るにもかかわらず、もっともっと多くの資本を貯めこもうとする。

資本家も資本家であり続けたいのであれば、この無限の価値増殖の過程に付き合って歯車 に巻き込まれて、できるだけコストカットしてより多くのお金をもう一回投資をできるよ うにしないといけない。だから、資本主義って膨張が止まらないんです。世界中を飲み込 んで、それでももっとマーケットを拡大していく。誰ももうそんなに求めてないって薄々 思っている人もいると思うんだけれども、それは個人がどう思おうと関係ない。資本の力 が人間の意識を離れて働かせ続ける。これも資本主義の恐ろしさなんです。(映像より)

産業資本は、生産部面と流通部面の2つの部面を時間的順序をなして通る循環過程の中 で、つねに資本家の元にありながら、貨幣資本(貨幣の形態にある資本)、生産資本(生 産手段および労働力の形態にある資本)、商品資本(商品の形態にある資本)の3つの形 態をとっては捨て、自己を維持し、増殖する価値の運動体として、静止している物ではな く、一つの運動としてのみ理解でる。

このような資本の根底には、労働力商品化を基礎にした階級関係、社会関係があり ます。しかし、価値の自己運動体としての資本は、価値増殖を自己目的的に追求する運動を展開し、 逆に人間の生産活動や社会関係を支配するものとなる。 こうして、より多くの利潤(剰余価値)の取得を自己目的化する資本の下で、労働者が働かされ続けることになるのです。 この時、労動組合・労動運動が屈服し、労働者が「生きるための抵抗」に立ち上がれないな ら、過重労働ばかりか過労死までをも強制されることになるのです。

長時間労働が蔓延するカラクリ

長時間労働の悲劇が起きるメカニズム。あるパン工場の例で見てみましょう。

1日1万円で雇われている労働者が8時間労働で生む価値が1万6千円〔1時間2千円〕 だとします。すると、差額の6千円は資本家の利益になります。労働者の賃金を超えて生 み出されるこの差額を、マルクスは剰余価値と呼びました。

資本家が利益を増やすために一番簡単な方法は、同じ給料で労働者を長時間働かせて剰 余価値を増やすことです。1日に8時間ではなく10時間働かせれば、さらに4千円〔2時間 X 2千円〕のプラス。12時間なら8千円〔4時間 X 2千円〕のプラスになります。

いかに長く働かせ、価値を搾取できるか。利益の追求にとらわれていく資本家を、マル クスは吸血鬼と呼び批判しました。

「自然日の限界を越えて夜間にまで食い込む労働日の延長は、ただ緩和剤として作用す るだけであり、労働の生き血を求める吸血鬼の渇きをどうにか鎮(しずめるだけである。 だから、1日まる24時間全部の労働をわがものとするということこそ、資本主義的生産の 内在的衝動なのである」(② 54頁)(映像より)

労働者はまる一日労働することで、自己の個体的維持・再生産(=労働力の再生産)に必 要な生活手段を作り出す労働時間(必要労働時間)を超える労働、すなわち剰余労働を行 う。この剰余労働を、資本家は剰余価値として搾取するのです。(下図参照)

図)労働者の1労働日(1日の労働時間)は必要労働(時間)と剰余労働(時間)に分かれる

●労働と労働力

労働とは、労働手段(働くための道具)と労働対象(働きかける物)があってはじめて 成り立つ人間労働力の発現、つまり、自然に対する人間の働きかけとしてある。そして人 間労働力は、それ自身人間の自然力の発現ですが、同時に、一定の歴史的・社会的関係の 発展を通して形成されたものとして具体的に発現し、現実化します。この労働力は、「人 間の肉体すなわち生きている人格のうちに存在していて、彼がなんらかの種類の使用価値 を生産する時にそのつど運動させるところの、肉体的および精神的諸能力の総体のことで ある」(①294頁)。

人間の労働は、資本主義社会では、労働者が資本家に労働力を売って、その価値=賃金 を受け取り、その賃金で生活手段を買い、それを消費して自己の労働力を再生産し、再び 労働力を売るという関係、すなわち賃労働としてあります。このように、労働者が資本家 の下で一定時間労働し、資本家から賃金を受け取るという関係そのものが、労働力の商品 化(関係)です。

▼資本主義の本源的蓄積過程 − 農村民からの土地の収奪と近代プロレタリアートの形成

この労働力の商品化という関係は、「いわゆる本源的蓄積過程」(第1巻第7篇第24章) におけるいっさいの生産手段(および生活手段)からの自由(切り離し)と、自分の労働 力を処分できる身分的・人格的な自由という「二重の意味で自由」な労働者の創出を歴史 的条件として、はじめて現れます。つまり、資本主義社会においてはじめて、労働力とい う一商品が市場に現れる。だから、賃労働すなわち労働力の商品化という関係は、自然史 的な、歴史上のあらゆる時代に共通な社会的関係ではないのです。

「この新たに解放された人々は、彼らからすべての生産手段が奪い取られ、古い封建制 的な諸制度によって支えられていた彼らの生存の保証がことごとく奪い取られてしまって から、はじめて自分自身の売り手になる。そして、このような彼らの収奪の歴史は、血に 染まり火と燃える文字で人類の年代記に書きこまれているのである」(③60頁)

ただし、土地、生産手段からの農民の引き離し、即労働力の商品化ということではない。 資本主義的生産が進むにつれて、教育や伝統や慣習によって、資本主義的生産様式の諸要 求を自明な自然法則として認める労働者階級が発展してきます。しかし、資本主義的生産 の歴史的生成期にはそうではなかった。

実質的な資本関係を形成していく過程における、血の立法とそれに伴うすさまじい 暴力の行使という歴史的過程の中ではじめて労働力が商品化され、資本の増殖欲求に適合 する人間材料にまで鍛え上げられた近代的プロレタリアート(賃金労働者)が生み出され たのです。


●労働力(商品)の価値

労働力の価値は、他のどの商品の価値とも同じに、その生産、したがってまた再生産に 必要な労働時間によって規定されています。

労働力は生きている個人・労働者の素質として存在するのだから、他の商品のように労 働によって直接生産することはできない。人間をロボットのように工場で作ることはで きないのです。だから、労働力の生産は労働者自身の再生産または維持である。労働する 個人は、一定の量の生活手段の消費によって自己を再生産または維持する(生きる)こと ができます。したがって、労働力の価値は、労働力の所持者の維持のために必要な生活手 段の価値である。

つまり、労働力の価値は、直接その生産のために必要な労働時間として ではなく、労働者が人間として生きるために必要な生活手段の価値──すなわち、その生活 手段を生産するために必要な労働時間──によって間接的に規定されるのです。

ここでの「労働力の維持」とは、繁殖(労働者階級という「種族」の世代的再生産)を も含む継続的な維持である。だから、労働者の子どもの生活手段も労働力の価値に含まれ ます。

また、平均的な発達水準の普通の労働力については、ほんのわずかの一定の養成費が、 労働者自身の特定の部門における特定の労働力としての自己の生産・再生産のために必要 です。だから、労働力の養成費もその限りで、労働力の価値に含まれる。

以上が労働力の価値の基本的な規定ですが、これらの要素はそれら自身きわめて弾力的 なもので静的に決まるわけではない。社会的な文化・生活レベルなど様々な要素が影響し、 労働力の価値(賃金)と剰余価値(利潤)とは、一方が増えれば他方が減るという敵対的 関係にある。労働力の価値は結局は、資本の蓄積運動の許す範囲において、最後は資本家 と労働者の階級的な相互関係=力関係によって決まるのです。

図) 1労働日で労働者が新たに生み出す価値

●労働力商品の価値規定 − 剰余価値の搾取

かつて日本共産党スターリン主義は、その賃金闘争論において、マルクスの「労働力の 価値」規定を、資本家との賃金交渉のための「公正で客観的な基準」を解明したものであ るかのようにゆがめ、資本家に「価値通りの賃金の支払い」をお願いしていた。今ではそ の「基準論」さえ投げ捨てている。労働組合として団結して闘うのではなく、「日本経済 を立て直す」景気回復の立場から資本家との「連帯」を求め、企業経営の成り立つ範囲で 「内部留保の一部を賃金に還元してほしい」、それが景気回復の手段であると、ひたすら 資本家にお願いするに至っている。

しかし「労働力の価値」規定の意味は、資本家が労働力の価値すなわち賃金を支払って (絶えず引き下げようとする。労働運動・労働組合が屈服していればその圧力はますます 強まる)、労働者から剰余価値を搾取するということです。そして、この賃金とは時間給 や出来高払いの形をとって、この搾取関係=階級関係を覆い隠す形態なのです。

賃金と利潤を「公正」に分配する客観的基準など存在しません。

労働者が階級的に団結して賃金闘争を闘うことは、結局は労働力商品化の廃絶、 つまり賃労働制度の廃止=資本家と労働者の階級関係そのものの廃棄(プロレタリア革命 =共産主義)を問題とするのです。

なぜ、生産力が上がっても労働者は働かされ続けるのか?

資本主義の下でイノベーションが起きたとしても、それは労働者たちの労働を楽なもの にするためではない。むしろ労働者たちをより効率的に働かせることで、今までよりも安 く物を作る。労働者たちは、その駒になってしまうわけです。だから、生産力が上がって も、労働者は働かされ続ける。

たとえばシャツ作りの場合、資本家Aの工場では、1着のシャツを手縫いで作り1万円 で売っていたとします。一方、資本家Bの工場では、ミシンを導入。大量に安く作れるの で1着千円で売ることができるようになった。

安い商品は当然、市場でシェアを伸ばすことができます。さらに、資本家Aが1万円で 売っているので、5千円で売っても優位に立つことができます。この時、4千円の上乗せ 分はまるまる資本家Bの儲けになるのです。

となれば、当然他のシャツ屋も黙ってはいません。みんなミシンを導入し、さらに安い 値を付け、資本家Bからシェアを奪おうとするでしょう。そこでは、賃金をも値下げされ るとマルクスは言います。

「商品を安くするために、そして商品を安くすることによって労働者そのものを安くす るために、労働の生産力を高くしようとするのは、資本の内的な衝動であり、不断の傾向 なのである」(②163頁)

価格競争の波に乗り遅れると淘汰(とうた)されてしまう資本家は、儲けを拡大しよう と必死になり、労働者は酷使されるのです。

「資本主義的体制のもとでは労働の社会的生産力を高くするための方法はすべて個々の 労働者の犠牲において行われるということ、生産の発展のための手段は、すべて、生産者 を支配し搾取するための手段に一変し、労働者を不具にして部分人間となし、彼を機械の 付属物に引き下げ、彼の労働の苦痛で労働の内容を破壊し、独立の力としての科学が労働 過程に合体されるにつれて労働過程の精神的な諸力を彼から疎外する」(②41頁) (映像より)

●絶対的剰余価値の生産とその限界

剰余価値の生産と獲得を自己目的化する資本は、剰余労働への無制限の欲求という本性 から、絶えず労働日(1日の労働時間)を労働者の生理的限界まで引き延ばそうとします。 資本にとっては、労働者にどれだけ剰余労働をたくさん行わせるかが利潤の源泉なのです。 必要労働時間が決まっていれば、1日の労働時間を増やせば増やすほど剰余労働は増える ことになります。だから、資本家は1分1秒でも多く労働者を働かせようとする。 そのために労働者の健康や寿命、生活過程などが破壊されることはさしあたり知ったこと ではないのです。

実際に、資本主義の祖国・イギリスでは19世紀前半、個別資本家間の競争を通して「労 働力の無際限な搾取への資本の衝動」(②22頁)が極限化し、労働者の寿命や体力の急激 な低下と「周期的な疫病」が、「国民の生命力の根源を侵す」ところまで行き着きました。

労働者は、こうした極限的な搾取に抵抗したが、資本家階級もまた、こうした事態に追 い詰められた。というのは、労働力商品とは労働者の存在そのものだから、労働者を生産・ 再生産するという関係が成立しなければ、資本は労働者を搾取できなくなり、資本主義社 会は成り立たないからです。資本のあくなき搾取の欲求は、放っておけば資本主義が成り 立たなくなるほどに、「労働者種族」の「生命力の根源を侵す」まで突き進むのです。

こうして、長期間にわたる資本家と労働者の階級闘争の産物として、国家による資本へ の法的な強制という形で労働日を社会的に規制・制限する工場法が制定されていきます。 こうした標準労働日の規制によって、資本による剰余労働の吸収、剰余価値生産のあくな き追求は、労働時間の絶対的な延長によってはなしえない限界に至る。

しかし剰余価値のあくなき追求は、別の方法によって限界を超えて進むことを必然化させます。

図) 絶対的剰余価値の生産の概念

●相対的剰余価値の生産とは何か?

労働時間の絶対量が決まっているのなら、剰余労働の増加は、必要労働部分の短縮によっ てしかなしえない。それを可能にするのは生産力を高くすることです。すなわち、「労働 の生産力を高くし、そうすることによって労働力の価値を引き下げ、こうして労働日のう ちのこの価値の再生産に必要な部分を短縮する」(②155~156頁)のです。そのために資 本は、具体的に物質的な生産条件=生産様式(労働過程の主体的・客体的条件および技術 的・社会的条件)そのものを変革していきます。

ここで「労働の生産力を高くする」(生産力の高度化)というのは、「一商品の生産に 社会的に必要な労働時間を短縮するような、したがってより小量の労働により大量の使用 価値〔商品〕を生産する力を与えるような、労働過程における変化のこと」 (②155頁)で す。しかし、それだけで剰余価値が相対的に増大するわけではない。このような「変化」 が労働力の価値(すなわち必要生活手段=生活必需品の価値)に影響を及ぼす産業部門を とらえたときにはじめて、労働力の価値は低下します。このように衣食住など生活必需品の価値の低 下によって労働力の価値を引き下げることで剰余価値を拡大する(相対的剰余価値の生産)。

こうした形で剰余価値をより多く搾取することこそが、資本にとっての生産力の発展 (生産力の高度化)の意味するものなのです。

図) 相対的剰余価値の生産の概念}

●特別剰余価値

ところで、直接に労働力の価値を低下させない生産力の高度化は、商品を安くしたとし ても剰余価値を増大させない。にもかかわらず、現実にはすべての資本家は、とにかく自 分の商品を「安く生産する」こと(生産力の高度化)を追求します。

同じ商品種類の商品を生産している資本家間において、より高度化した生産方法を他に 先駆けて採用した場合には、そこで生産する商品の個別的価値は、生産力の上昇によって 同じ労働時間で大量の商品を生産するわけですから、旧来の方法で生産している資本家の 生産する商品によって規定される社会的価値以下となります。この一資本家が、この安く 生産した商品を社会的価値で売るなら、個別的価値よりも高く売ることになる。こうして 彼は、その差額分を特別剰余価値として得るわけです(この個別資本にとっての「特別剰 余価値」は、高度化した新たな生産方法がやがて社会的に普及し一般化されて同種の商品 の価値が社会的に低くなればなくなります)。

こうした個別資本による特別剰余価値の追求を推進動機として、生産力の自己目的的発 展が資本家間の競争を通して限りなく求められていく。「労働の生産力を高くしようとす るのは、資本の内的な衝動であり、不断の傾向」となるのです。

こうして、安く買って高く売ることを一般的な運動形式(G─W─G'〔=G+ ΔG〕)と する資本が、安く生産することを強制され、たえず安い商品の生産を追求するという関係 が理論的に把握される(ΔGは剰余価値)。つまり、資本にとって、労働の生産力を高く し商品を安くすることはなんら矛盾したものとはならないということが、価値法則の貫徹 の問題としてつかまれるのです。

したがって、資本による生産力の高度化とは、商品を安くし労働力の価値を低下させ、 それによって剰余価値の搾取を強めるためにこそ行われるのであり、けっして人間労働を 軽減したり、人間生活を豊かにすることを目的として行われるのではない資本主義にお ける科学や技術の発展というものはすべて、特別剰余価値の追求をテコとした相対的剰余 価値の生産、つまり、人間をより激しく搾取し、人間を徹底的に搾取材料とするための手 段なのであり、それはすべて資本の利潤(剰余価値)のために行われるのです。


●生産力の高度化=合理化問題

資本主義における生産力の高度化は、現在的に言えば合理化問題という形をとります。 20世紀および21世紀現在における資本主義=帝国主義は、合理化運動という形をとって生 産力を高度化していく。そして生産力を高度化しながら、労働者を資本の下に制圧しよう としていきます。

つまり、資本主義の帝国主義段階における資本は、周期的恐慌の媒介なしに絶えず合理 化し生産力を上げながら、労働者への搾取と支配を強めていく。その中で、資本主義的な 様々な形での労働者の非人間化、労働力商品としてモノのように扱うことも本格的に行わ れていきます。

そのことは、マルクスが描いている『資本論』の時代の自由主義段階の基軸産業として の繊維工業から、帝国主義段階に入り基軸産業が重工業、重化学工業となる中で、ますま す徹底的に貫かれていくのです。

そして今日の新自由主義(=最末期帝国主義の絶望的延命形態)は、コロナ禍をも奇貨 として、さらなる金融バブル、ICT(情報通信技術)の発展と経済のデジタル化・ネッ ト化にのめり込み、破滅の道に突進している。その中で、AI(人工知能)やロボット、 IoT(モノのインターネット)などを活用し、労働者の排除をも含む生産活動の「効率 化・自動化」もさらに加速させようとしています。

では、こうした究極の大合理化に対して、労働者階級はいかに闘い抜くのか。

この問題について『労働運動の変革をめざして』(国鉄闘争全国運動編)では、「労働 運動にとって資本による合理化との闘いは、最も大切で、一番本質的な闘争課題だ。だが、 そうであるがゆえに最も不徹底にしか闘われてこなかった。戦後日本の労働運動史を見て も、反合闘争が最後まで闘い抜かれた歴史はほとんどない」(第7章274頁)と言ってい ます。この困難な課題に対して、鉄道の安全問題を切り口にしながら、「科学・技術に屈 服するのでなく、これに『人間』を対置した」(同第1章25頁)反合理化の職場闘争の中 から編み出されてきたのが動労千葉の労働運動であり、反合理化・運転保安闘争(路線) です。

その意味で、この運動と路線の中には社会的に普遍的な教訓があります。 韓国・ 民主労総など世界の闘う労働組合・労働者が、動労千葉に支持と連帯を寄せ、今日の国際 連帯闘争の地平を切り開いてきている最深の根拠もここにあると思います。

最後に

社会の変革=革命は、社会的生産諸力と生産諸関係との衝突によって根本的に規定され、 政治的・イデオロギー的な場において、階級闘争を通して決着がつけられます。資本主義 は、資本の価値増殖を推進動機として生産力を自己目的的に発展させ、「これまでのすべ ての時代を全部合わせたよりも、はるかに大量で、はるかに巨大な生産諸力」(マルクス・ エンゲルス『共産党宣言』)を急速につくり上げてきました。今日の新自由主義の下では、 もはや生産力が破壊力としてしか現れず、大恐慌の爆発や世界戦争・核戦争へと突き進む、 あるいは新型コロナや気候変動、2011 年3・11福島原発事故でも示されたように人類破 滅的災厄(さいやく)をもたらすしかないどん詰まりの危機にあります。

図) 過去2000年間の世界のGDP

〈コロナ×世界大恐慌〉情勢下、資本主義という「社会構成」の生産力は完全に 桎梏(しっこく)(=手かせ足かせ)となり、「社会革命の時期」はかつてなく成熟している。労働者階 級が〈プロレタリア自己解放の闘い〉=プロレタリア革命をもって資本家階級を打倒し、 労働者階級の権力を打ち立て、資本主義を転覆して次の社会(高度な共同社会=共産主義) へと向かう以外に人間社会の未来を展望することはできません。

若者を中心に労働者が、資本主義の「次」を問題とし、「資本主義じゃない別の世界」 「社会主義」「皆が自由で平等に生きられる社会」を作ることを模索している中で、それ にしっかりと向き合い、かみ合った議論や実践を通して労働組合や地域で組織化し、共に 闘う仲間として獲得していく。そのために、労働組合交流センターに結集して闘っている 私たち自身が、自らの見解を持つことが問われていると思います。『資本論』を学ぶこと は、その重要な一環をなすと確信します。

今回の講座を、参加者全員が団結し一丸となって、問題意識や感想を出し合い、その第一 歩を踏み出すもの、あるいは『資本論』に挑戦してみようという意志と意欲を持てるもの にしていきましょう。皆さんの積極的な発言をよろしくお願いします。